恵迪寮中途退寮者の意見

北海道大学卒業者・恵迪寮中途退寮者の井上修一が書いています。恵迪寮での文化の押し付け、多発するハラスメント、民主主義を無視した運営に辟易して退寮しました。

恵迪寮ではなぜ部屋の移動が制限されているのか

恵迪寮生の我如古氏の

answer-keiteki-inoue.hatenadiary.jp

への返答である。

私が

恵迪寮の負の面 - 恵迪寮中途退寮者の意見

伝統派は恵迪寮の「教育的意義」を強く主張する。寮で他人と共同生活をすることで貴重な「人間的成長」が得られるというのが彼らの言い分である。この帰結として、自治会は寮生が当事者どうしの相談で居室を移ることを制限している。これが自由になると嫌いなもの・嫌いな人から逃げるようになって「人間的成長」の妨げになるのだそうだ。しかしこの結果、立場の弱い者・運の悪い者は窓が破れ、壁が崩れ、寝台が壊れ、マットレスに穴があき、暖房が動かないような居室に押し込められて移動できなくなっている。

と述べたのに対し、我如古氏は

伝統派でくくるな。こういった主張に井上氏は出会ったことがあるのだろうが、上記の「数の上では1/3」の皆が皆こう思っている訳がない。そもそも、居室を勝手に移ることを制限している主たる理由は、郵便配達や、掃除当番の割り振りなどの実務の面であろう。勝手に移られたら担当者は煩雑すぎる。人間的成長」の妨げなんてものが自治会としての第一の理由にはなりえんでしょう。

と述べている。「伝統派」という用語については 恵迪寮伝統派とは誰か - 恵迪寮中途退寮者の意見 を参照されたい。

恵迪寮では、部屋の移動が制限されている。特例として、新入寮生が入寮してから最初の部屋替えを迎えるまでの間のみ、かつ、話し合いで解決し得ない問題についてのみ、入寮銓衡委員会の監督の下、部屋の移動が許可される場合がある。「話し合い」については、我如古氏が

暴力の伴わない「勧誘」「説得」は「強要」だとは思っていない。実情は「断りづらい雰囲気を作る」に留まっていると思う。

と述べている。この見解は寮内で一定の支持を得ており、限りなく「強要」に近い「勧誘」「説得」が横行している。そのことは 何をもって「強要」と呼ぶか - 恵迪寮中途退寮者の意見 に書いた。よって、新入寮生が自分の望む生活を実現するには、かなり高いハードルが設けられており、しかもそれが「話し合い」として扱われている状況である。このハードルを苦にした新入寮生が「部屋を移りたい」と申し出ても、入寮銓衡委員会が我如古氏の説に立てば、「まだ話し合いで解決できる可能性があるから認めない」という結論になってしまう。

我如古氏は

居室を勝手に移ることを制限している主たる理由は、郵便配達や、掃除当番の割り振りなどの実務の面であろう。勝手に移られたら担当者は煩雑すぎる。

と述べる。まあ、納得できる理由である。が、私は初めて聞いた。寮内で部屋の移動を制限する理由としてこれが挙げられたのを聞いたことがない。

我如古氏は

人間的成長」の妨げなんてものが自治会としての第一の理由にはなりえんでしょう。

とも述べているが、これも同様、我如古氏の個人的な見解に留まる。

さらに我如古氏は

運営側の心情としても、恵迪寮は自分の住む所を自分で選べるので(説明略、当然希望がかち合ったらどちらかは譲らなければならないが)、「自分で選んだくせに移動したいとは何事だ」となるでしょう。

と述べる。しかし、この「住む所を自分で選べる」という叙述には注意が必要だ。新入寮生が入寮すると、10人から20人くらいの束で演台に乗り、演台の下から上級生が部屋の看板を持って押し寄せ、新入寮生は看板をつかむことで部屋を選ぶ。これの前に部屋を見学することはできるが、部屋員が全員いるとは限らないし、じっくりと話せるとも限らない。6月と12月の部屋替えでは、部屋の場所・人員を検討する期間が3、4日間あるが、結局最後の10分間に騒乱のなか決定されるのが通例だ (部屋替えについては別エントリで詳述する)。これに責任を求めるのは少し酷ではないか。

我如古氏は、部屋内で生ずる意見の衝突は全て「話し合い」で決したい、限りなく強要に近い説得・勧誘でも暴力を振るわず金銭を徴収しなければそれは「話し合い」のうちだ、という立場のようだ。そしてこれは寮内で通説の位置を占めている。しかし、苦手な人とはなるべく会わないようにする、接触の機会を減らすというのも重要な人生の知恵だ。全てのケースで正面からぶつかり合うべきかと言えば、そんなことはない。部屋移動による解決を認めても良いのではないか、と私は思う。

2018年12月12日追記

クレジットを消しました。

何をもって「強要」と呼ぶか

恵迪寮生の我如古氏の

answer-keiteki-inoue.hatenadiary.jp

への回答である。

私が 恵迪寮の負の面 - 恵迪寮中途退寮者の意見

(恵迪寮では)「文化の継承」「意志伝達」の美名のもと、新入寮生には行事参加の強要、食の強要 (「食い極」と称して吐くまで食わせる) が盛んに行われる。

と書いたのに対し、我如古氏は

賛成度:15%

何をもって「強要」なり「強制」と言うかが問題だ。私は暴力の伴わない「勧誘」「説得」は「強要」だとは思っていない。実情は「断りづらい雰囲気を作る」に留まっていると思う。参加しないと部屋から追い出すとか、引きずってでも参加させるような事例を聞いたことは無(あ、一度嫌がる新入寮生をメシに誘うときに数人で腕を引っ張った覚えがある。)一例しか知らない。その時でも、上級生が説得を続けた末、本人の合意があった。私の知らない所で行き過ぎた行動がとられている可能性は否定できないが、まあ、無いんじゃないかなあ。

何事も、嫌なら嫌で主張すれば良い。いや、しなければならない。結局嫌な思いをするのは自分なのだから。自分は気が弱いから…とか言われても知らん。そこは自己責任だろ。主張しない者の考え方を想像して気を遣えとでも言うのか。不特定多数相手ならともかく、顔を突き合わせた個人間の話なのだから、一般論なんかよりお互いの合意が優先されなければならない。在寮時の井上氏(及び氏から考え方を学んだ者)の表現で、「行事参加は自由」というのを時折見かけた。そんなの当り前だろ。しぶしぶでも何でも、自分の意志で参加したものを後になって「強要された」とか言われても知らん。他学寮で、コンパなどの行事に参加しないと罰金というような所も知っているが、うちはそんなこと無いよ。

と書いている。

まず驚くのは、「説得」という単語が使われていることである。なぜ、たかが遊びに「説得」などという言葉が使われるのだろうか。「説得」とは、しなければいけないことをするように説くときに使う言葉ではないのか。ここは「対話」でなければいけないはずである。

寮内でよく見られる、その「説得」の様子に、こんなものがある。

上級生「外に食事に行こう。」

新入寮生「いまお腹が空いていないので、いいです。」

上級生「いや、行こう。」

新入寮生「それに午後予定があるので。」

上級生「いや、行こう。」

新入寮生「外せない予定なので。」

上級生「いや、行こう。」

新入寮生「予定というのは科目のガイダンスで、それに出ないと不利益が生じるので。」

上級生「いや、行こう。」

新入寮生「それに部活の試合も控えていて、体重を増やしたくないので。」

上級生「いや、行こう。」

新入寮生「勝たなければいけない試合なので。」

上級生「いや、行こう。」

新入寮生「恵迪寮のそういうノリにもちょっと疲れてきたので、一人で食事がしたいです。」

上級生「いや、行こう。」

対話にすらなっていない。しかしこういうのがよくあるのだ。寮歌の普及活動になると、もっと性質が悪い。部屋に1人か2人くらいで過ごしているところに寮歌普及委員が10人くらいで押しかけてきてこのように「いや、歌いましょう」を繰り返すのだ。最終的に「はい、行きます」「はい、歌います」と答える以外の出口のない「説得」「勧誘」は、「強要」に限りなく近い。「行事参加は自由」とわざわざ主張しなければならないほど、こうした「説得」が盛んに行われているのが現実である。我如古氏の言うように「暴力を振るっていないし罰金も取っていないから強要ではない」と主張することは可能だろう。しかしこの主張によって、何を守れているのだろうか。むしろ、この主張がまかり通っている結果、「個室に住んで、寮自治の活動に極力参加しない。相部屋住人とは極力話さない」という選択が生まれている。

もちろん、寮生が個室に住む理由はこれだけではないだろう。「説得」のやり方だけを悪者にするわけにはいかない。しかし、

恵迪寮の個室は驚異の発明品だ。 - 恵迪寮中途退寮者の意見

恵迪寮の個室は分断統治されている。 - 恵迪寮中途退寮者の意見

に書いた通り、個室の現状は、恵迪寮の民主的運営の巨大な阻害要因である。そのために、個室の現状を生んでいると疑いのある要因は全て精査・改善する必要があると私は考える。

2018年12月12日追記

クレジットを消しました。

何をもって「横行」と呼ぶか

我如古氏の answer-keiteki-inoue.hatenadiary.jp への回答である。

私が 恵迪寮の負の面 - 恵迪寮中途退寮者の意見

恵迪寮は、楽しんでいる人も多いが、苦しんでいる人も多い場所である。ここでは「バンカラ」に名を借りた窃盗・暴力・器物損壊が横行している。

と書いたのに対し、我如古氏は

賛成度:30%

あちらのブログの最初の記事の冒頭である。うーん、インパクト強いね。窃盗・暴力・器物損壊がゼロとは言わないが、あくまで「そういう個人がいる」というに留まり、自治会が組織ぐるみで行っていたり、「恵迪寮の文化」として残そうとその行動が引き継がれてきたものではない。「文化」や「暴力」の定義があちらさんとは違うと思うので、詳しい説明がなされれば賛成度は上がるだろうが、「横行」は言い過ぎ。善人はおちおち生活できない寮のように読めてしまう。

加えて、「バンカラ」に幻想を抱いているつもりはないが、「バンカラ」に名を借りたというより、個人の怠惰や無思考が主な行動の動機であるように思う。

と述べる。しかし私はやはり、恵迪寮では窃盗・暴力・器物損壊が「横行している」と思う。自治会の規約に「裁判」の規定があり、謝罪、弁償または退寮の処罰を下せることになっているが、少なくともここ5年間、これが行われたことはない。窃盗・暴力・器物損壊を行った者が、警察の捜査を受けたり、大学から譴責・停学・退学といった処分を受けたことも、私は聞いたことがない。加害者が自主的に退寮したり謝罪したりしたことも、私は聞いたことがない。他方、窃盗・暴力・器物損壊を苦にした退寮者は確実に存在する。

バンカラ」に名を借りた、という言い方は真実ではないかもしれない。しかし、執行委員が冷蔵庫やアイスの什器の施錠を忘れたときに中身を盗むことは、「教育」として行われている。誰々がこういう曲がったことをしたから殴ってやったといった話を美談として披露する者がいる。昔こういうことをして誰々さんに殴られたというのを美しい思い出として話す者もいる。下級生の眼鏡や大切な本やコレクションを壊すとかマヨネーズをかけるといった行いも、上級生から下級生への絡みとして容認する勢力がある。恵迪寮では、窃盗・暴力・器物損壊が文化の後押しを受けている。私はそう考える。

2018年12月12日追記

クレジットを消しました。

恵迪寮生の寮への心象は、最初の部屋によって大部分決まる。

answer-keiteki-inoue.hatenadiary.jp

私のブログに対し、寮生の我如古氏から批判をいただいている。少しづつ答えてゆく予定だ。各論の前に、全体に関わる問題から記述してゆきたい。

我如古氏の記事を読むと、我如古氏と私の間で、「同じ事象を観測しているが、その受け取り方が違う」という箇所がいくつかある。今回は、その受け取り方の違いがどうやって生まれるかの話だ。

新入寮生は、入寮したその日にどの部屋に住むかを選ぶ。入寮は4月と10月にあるが、4月に概ね150人、10月に概ね7人というのが通例なので、今回は4月の入寮に絞って話をする。4月に入寮して部屋を選んだら、6月半ばの部屋替えまでその部屋に住む。その間、部屋単位で生活し、行事に参加し、外食に行き、飲みに行き、銭湯に行き、寮内でゲームや遊びをすることになる。「寮生は部屋での活動と部屋員との人間関係を第一に大切にすべきだ」という思想も寮内に存在し、そこから、新入寮生に「他の部屋にはあまり行くな」と指導する上級生も存在する。

6月の部屋替えをした後は、新歓行事もなく、その他の行事も少なく、部屋単位で行動することも少なくなる。だから、最初に入った部屋で寮への心象が大部分決まってしまうのである。これが後々まで意見の違い、意見の根本にある感覚的な部分の違いとして残ることになる。

この違いをお互いに披瀝して擦り合わせる場は、現在少ない。例年12月に新歓実行委員会 (新入寮生歓迎行事実行委員会) が発足し、1年目が主体として動く建前になっているが、会議 (新歓会議と言う) には上級生も来るので、批判めいた発言は出にくい。それに、個室住人はほとんど新歓会議に来ないので、相部屋住人と個室住人の間にある、最も大きく重大なはずの感覚の違いの擦り合わせができない。

だから、我如古氏と私が、大きく異なる感覚を、こういう公開の場で話すことができるのは、大変意義深いことだと私は考える。

2018年12月12日追記

クレジットを消しました。

恵迪寮伝統派とは誰か

恵迪寮の負の面 - 恵迪寮中途退寮者の意見 に対し、我如古氏から批判をいただきました。

answer-keiteki-inoue.hatenadiary.jp

少しづつ答えてゆきます。読みやすさのため常体で書きます。失礼をお許しください。

私が

非伝統派の意思が寮運営に反映されないよう、また伝統派が簡単な手順で権力を握れるよう巧妙に設計されているのが恵迪寮の自治制度であり、数の上では 1/3 ほどの伝統派が主流派となっている。伝統派の横暴はしばしば目に余る。

伝統派は恵迪寮の「教育的意義」を強く主張する。寮で他人と共同生活をすることで貴重な「人間的成長」が得られるというのが彼らの言い分である。この帰結として、自治会は寮生が当事者どうしの相談で居室を移ることを制限している。これが自由になると嫌いなもの・嫌いな人から逃げるようになって「人間的成長」の妨げになるのだそうだ。しかしこの結果、立場の弱い者・運の悪い者は窓が破れ、壁が崩れ、寝台が壊れ、マットレスに穴があき、暖房が動かないような居室に押し込められて移動できなくなっている。

と書いたのに対し、我如古氏は

伝統派でくくるな。こういった主張に井上氏は出会ったことがあるのだろうが、上記の「数の上では1/3」の皆が皆こう思っている訳がない。

と述べる。批判への回答として、まずこの問題を扱いたい。なぜならば、私のこのブログの本質に関わる問題だからだ。

恵迪寮自治会は、恵迪寮では寮生間の欲求が衝突しやすいが、自治制度によって寮生間の対等な話し合いの機会を確保すれば、寮生全員が最も納得できる結果を実現できる、と主張して、自治をすべき根拠としている。ところがこの理想は実現できていない。恵迪寮の生活に満足している人とそうでない人の格差が激しいのである。満足できない人のうち最も甚だしい人は、中途退寮者、特に早期退寮者である。

上で述べた現実が、私がこのブログを書く動機である。対等な立場からの話し合いが理念として掲げられているのに、それを阻害する要因がいま存在することを、恵迪寮生に、北大生に、北大教職員に、そして世の中の人に知ってほしいのだ。

話し合いの阻害の要因として最も大きいのは、「寮生の平穏な生活よりも恵迪寮の伝統の方が大事だ」と考える勢力だと、私は観察の結果、考える。私はこの勢力を「伝統派」と呼ぶ。そして今般、我如古氏から、伝統派というくくり方は粗雑であると批判を受けている。

現在この瞬間、恵迪寮生は400人程度いる。1983年にいまの恵迪寮の建物ができ、恵迪寮自治会が自治権を奪還してから恵迪寮に住んだ人を合計すれば、膨大な数になるだろう。その一人ずつをつぶさに観察することはできないし、その観察結果をつぶさに述べたら、読者も、何が本質かを見出す前に疲れ切ってしまうだろう。だから抽象化して観察して、そこから得られる知見を述べるのである。「伝統派」とは、方法的な呼称である。それゆえ、扱う主題によって「伝統派」の定義は少しづつ異なる。入寮銓衡における「伝統派」、飲酒事故防止対策における「伝統派」、行事に対する「伝統派」、この三つの「伝統派」は、違う人間の集団を指すことになるだろう。

だから私は、以下を自分に課したいと思う:

・自分に有利な結論を引き出すために「伝統派」の定義を恣意的に変更することをしないよう、十分気を付ける。

・「抽象化のし過ぎである」「抽象化のしなさ過ぎである」「くくり方が現実と乖離している」という指摘には耳を傾ける。

・「抽象化によって得られたその結論とは違い、個別にはこういう事象が存在する」といった報告を切り捨てずに、耳を傾ける。

さて、私は、

伝統派は恵迪寮の「教育的意義」を強く主張する。寮で他人と共同生活をすることで貴重な「人間的成長」が得られるというのが彼らの言い分である。この帰結として、自治会は寮生が当事者どうしの相談で居室を移ることを制限している。これが自由になると嫌いなもの・嫌いな人から逃げるようになって「人間的成長」の妨げになるのだそうだ。しかしこの結果、立場の弱い者・運の悪い者は窓が破れ、壁が崩れ、寝台が壊れ、マットレスに穴があき、暖房が動かないような居室に押し込められて移動できなくなっている。

と考えている。今回我如古氏から批判を受けても、なお同じ考えである。これについては別エントリで書く。

2018年12月12日追記

クレジットを消しました。

恵迪寮自治会の代議員の選出は、大量の死票を生んでいる。

恵迪寮規約第15条に

代議員会はこの寮における常設最高議決機関である。

と定めがある。代議員会規定第4条には、

代議員は互選により各ブロックより一人ずつ選出される。

と定めがある。現実には、部屋入り (代議員会に先立つ、各部屋での議案の予備審議) の後、各部屋でカード引き (各員がトランプを山から1枚ずつ引き、「ナポレオン」というゲームのスート・数の序列に基づいて勝敗を決めるもの) をして、勝った者が代議員を務めることになっている。代議員は名誉ある職務である、という建前から、負けた者ではなく勝った者が務める。

この選出方法に落とし穴がある。大量の死票を生んでいるのである。なぜならば、ブロックごとに賛否の決まる議案がほとんどないからである。もし仮に、「寮の共用部にあるピアノやドラムを24時間使って良いことにしよう」という議案が出たら、これはブロックごとに意志がほぼ決まるだろう。ピアノやドラムに近いブロックはこの議案がもたらす害が大きいし、ピアノやドラムから遠いブロックはこの議案がもたらす害が小さい。各人が自分の利害だけを考慮して賛否を決めると仮定すると、ピアノ等に近いブロックは反対で決まりだし、遠いブロックは賛成で決まりだ。それぞれ、反対の立場の代議員と賛成の立場の代議員を代議員会に送ることになる。かくして、代議員会での賛成票と反対票の比は、寮生の賛成反対の比を正確に反映する。現実にはここに「自分はピアノ等に近いから害を受けるが、寮全体の利益を考えて賛成する」「自分はピアノ等に遠いから害を受けないが、寮全体の害を考えて反対する」という立場が加わるわけだが、基本的にはブロックごとに賛否が決まるだろう。

ところが、現実の議案はそうではないのだ。属地的に利害の決まる議案はほとんどない。執行委員会の物品販売をどう行うか、執行委員会の炊き出しをいつ行うか、大学当局との交渉で何を主張するか、入寮銓衡をどう行うか、飲酒の規制をどう行うかといった問題の利害は、属地的には決まらない。むしろ人それぞれの経験や価値観、具体的には寮に何を求めているか、自分の24時間のうちどれだけを寮で過ごしどれだけを外で過ごすかといった要素で決まることが多い。つまり、寮自治会で話し合う案件のほとんどは、判断が属人的なのだ。

建前上、恵迪寮の全ての部屋は「部屋サークル」という自治会の機関ということになっている。各部屋は部屋サークルとして「アニメを見る」とか「将棋を指す」といった趣旨を掲げその趣旨のもと活動する人を集めているという建前である。この建前から、各部屋には価値観の類似した寮生が集まりやすい、という主張を聞いたことがある。この主張の下では、上記の代議員の選出も、目立つほどの死票は生み出さないという結論になるだろう。しかしそうだろうか。「将棋を指す」という趣旨で結束した人たちが、「飲み会の申請を実行何日前まで受理すべきか」という問題において利害を同じくするだろうか。そして賛否を同じくするだろうか。それに、寮生が部屋を選ぶ動機は、部屋の趣旨への共鳴だけではない。「好きな寮生と同じ部屋に住みたい」「嫌いな寮生と違う部屋に住みたい」「他の部屋に入れなかったからしかたなく」「部屋の趣旨は無視して自分のやりたいことをできそうだから」と、様々な思惑があるのだ。

これを打破するには、代議員の「選挙区」を変えるか、代議員がブロックの少数意見も死票にせずに代議員会の場で確実に表明することである。

鈴木氏の批判に答えて

恵迪寮自治会は「十人十色」を良しとする集団ではない。 - 恵迪寮中途退寮者の意見 に対し恵迪寮生の鈴木麟太郎氏から批判をいただきました。承諾をいただいたので、以下に全文を転載します。ただし人名を伏字にした箇所があります。

昔から井上君の話はいつも考えさせてくれて勉強になります^^

すみませんが今回は賛同しかねますm( )m

また勉強になったって意味なので、私の事嫌いにならないでくださいね!?

期待すると、痛い目に遭う可能性

魅力の発見が可能性であって保障されていない、まして強制でもないことには、受験生や保護者ならまず気づくでしょう。

違う意志を持つ寮生がたくさんいる

道信氏は「十人十色」と多様性を重視しています。同じ意思を全員で共有するのではなく、多様な意思の多様さを知る方が現実的で、知るためには笑い合い考えをぶつけ合うことが実際有効であった言いたいのだと思います(違ったらごめん!)。

新たな文化を作るのではなく

近年は寮生の多様性を知るための企画(部屋廻り、お出かけしようぜ等)を4月上旬に、寮の芸術や伝統文化を知るための企画(寮歌祭、士幌合宿等)を後半に配置するなど、狙いのある変化が具体化しつつあります。これは「興味のある企画でも知り合いがいないと参加しにくい」という調査結果に基づく試みで、従来の多様さに加えて順序を与えることで寮生相互と伝統文化の2つともの理解を達成する狙いがあります。上手くいくといいですね^^

150人くらいの人だけが恵迪寮で「個性」を発揮して受容されている

印刷物や企画で全寮に紹介されているのは150人程度です。一方で最近では期の終わりや始まり(6月頃と12月頃)に全部屋の活動を振り替えって自己紹介する機関紙(?)が発行されました。これを見ると「特になし」みたいな部屋は1割未満部屋であり、個人が出来事とともに紹介されていました。部屋内規模でも個性が発揮・受容されている裏付けだと思います。1割未満という数字から、先述の「期待すると痛い目に会う可能性」は十分低いんじゃないかと思います。

他人の話を聞くことよりも自分の話をすることを重視する人が、伝統派寮生には多かった。

寮内でよくある話の一つに、「井上君が仕切っていたときの新入生受け入れは素晴らしかった」という話があります。当然井上君の話を委員が聞いて、話し合って実行したことです(よね?)。 毎期そうですがこの委員会は新入寮生のサポートや大学当局との交渉など任務の性質上、寮に詳しくて活動に積極的な人でないと務まりません。

同じ相手でも話を聞いてくれる時と聞いてくれない時がある程に、話し合いは実は難しいものだと思います。特に大人数の会議は話を聞いてもらいづらい(人の話も聞きづらい)ので、やり方は見直した方がいいかもしれませんね。

伝統派寮生には多かった。

この感想には注意しなければなりません。私の感想ではなく事実として、「俺の提案に合わないなら引っ越せ」「代々個室だから自治(企画、会議、掃除、防災等全て)に参加しない。部屋の先輩にそう言われた」という、話し合いに応じてもらえず、生活に支障が出るレベルでの理にかなわない話がまかり通ってきたのは、文中で「個室に追いやられた」と表現された人・部屋でした。

キャラ付けと主従関係の話題

ここでの主従関係とは、嫌でも無条件に従う関係という意味でしょうか。

これは事実じゃなくて感想ですが、寮での主従関係の原因で最も重大なのは、「暴力等による恐怖」あるいは「先輩とは従うべきもの」という固定観念で、キャラ付けではないと感じます。

申し訳ないのですが、××さんや井上君が感じた「キャラ付けによる精神的上位の形成」がどういうことなのか分かりません。私に体験がないためだと思うので、もし失礼でなければ教えてほしいです。

ここから余談。

教養の授業の受け売りですが、暴力を受けて育った人と、自力で暴力を克服した人は、自分の過去を正当化するため、後に暴力をふるう側になりやすいそうです。

また別の受け売りですが、入寮前まで上下関係や慣習、規則に縛られて育った人ほど「先輩や慣習、規則には従わなければならない」と勘違いしてしまうのではないかとも思います。

もしも受験から急に解放されて、急に手にした(=ある意味押し付けられた?)自由に戸惑う人がいるとしたら、クラーク氏が札幌農学校生に教えた、責任ある自由を伝えられたらいいな…と思いました。

というわけで平成遠友夜学校の宣伝!

4月7日(火)18:30より遠友学舎でクラーク精神についての講義を予定しております。変更になったらごめんなさい!

平成遠友夜学校はいつでも無料、予約不要、誰でも聴きに来れます。毎週あるけど1回でも歓迎します。生徒には学生から戦前生まれまでいます。

残念なのは北大入学式前夜祭と同日で1年生が受講できないことですね…(^^;)

批判に答えようと思います。以下、読みやすさのために常体で書きます。失礼をお許しください。

私が

恵迪寮自治会は文化の保存をも任務としている団体である。この文化とは、毎年恵迪寮に集まった寮生が何かをすればそれが文化になるというようなものではない。昔からある寮歌やストームを寮生に実行させて、それを文化とするものである。恵迪寮では人が文化を作るのではなく文化に人をはめ込むのである。文化に馴染めない寮生が現れたときは、それらの寮生と折り合いをつけて新たな文化を作るのではなく、個室に追いやって文化を護持する。

と書いたのに対し、鈴木氏は

近年は寮生の多様性を知るための企画(部屋廻り、お出かけしようぜ等)を4月上旬に、寮の芸術や伝統文化を知るための企画(寮歌祭、士幌合宿等)を後半に配置するなど、狙いのある変化が具体化しつつあります。これは「興味のある企画でも知り合いがいないと参加しにくい」という調査結果に基づく試みで、従来の多様さに加えて順序を与えることで寮生相互と伝統文化の2つともの理解を達成する狙いがあります。上手くいくといいですね^^

と言う。私が言いたいのは、恵迪寮で個室住人が文化を作る主体となっていないことである。部屋まわりには辛うじて個室の半数くらいが参加していたと思うが、あとはなおざりである。「お出かけしようぜ」(新入寮生と上級生が小グループで外出し食事等をする) に参加する個室の上級生は5名もいないし、5月以降個室が企画を主催することはほぼない。

さらに鈴木氏は

印刷物や企画で全寮に紹介されているのは150人程度です。一方で最近では期の終わりや始まり(6月頃と12月頃)に全部屋の活動を振り替えって自己紹介する機関紙(?)が発行されました。これを見ると「特になし」みたいな部屋は1割未満部屋であり、個人が出来事とともに紹介されていました。部屋内規模でも個性が発揮・受容されている裏付けだと思います。1割未満という数字から、先述の「期待すると痛い目に会う可能性」は十分低いんじゃないかと思います。

と続ける。部屋内で個性の発揮・受容が行われていれば良いのか。私はそうは思わない。現状、「食い極などばかばかしい」「理不尽に威張り散らす上級生を軽蔑する」「寮歌など聞くのも嫌だ」という異端の考えを相部屋で安全に主張し続け理解を得ることはできない。「嫌なら個室に行け」で終わりにする上級生があまりに多い。私はこの格差を問題にしているのである。確実に、恵迪寮には公認される価値観・嗜好とそうでないそれがある。

私が

(入寮案内の執行委員長の) 談話に

さらなる自分の魅力に気づけたり、逆に気づいてもらえる。

とある。本来これと対をなすべき「他人の魅力に気づいたり、逆に気づかせてやれる」が書かれていないのは、恵迪寮伝統派の気風を正確に表していると思う。恵迪寮伝統派は、恵迪寮とその文化を愛好する理由に、「恵迪寮では自分に関心を持ってもらえる」ということを挙げる人が多い。私が3年間住んだ感想では、他人に関心を持つことより自分に関心を持ってもらうこと、他人を理解することより自分を理解してもらうこと、他人の話を聞くことよりも自分の話をすることを重視する人が、伝統派寮生には多かった。

と書いたのに対し、鈴木氏は

寮内でよくある話の一つに、「井上君が仕切っていたときの新入生受け入れは素晴らしかった」という話があります。当然井上君の話を委員が聞いて、話し合って実行したことです(よね?)。

毎期そうですがこの委員会は新入寮生のサポートや大学当局との交渉など任務の性質上、寮に詳しくて活動に積極的な人でないと務まりません。

同じ相手でも話を聞いてくれる時と聞いてくれない時がある程に、話し合いは実は難しいものだと思います。特に大人数の会議は話を聞いてもらいづらい(人の話も聞きづらい)ので、やり方は見直した方がいいかもしれませんね。

私の感想ではなく事実として、「俺の提案に合わないなら引っ越せ」「代々個室だから自治(企画、会議、掃除、防災等全て)に参加しない。部屋の先輩にそう言われた」という、話し合いに応じてもらえず、生活に支障が出るレベルでの理にかなわない話がまかり通ってきたのは、文中で「個室に追いやられた」と表現された人・部屋でした。

と述べる。

私は、自治の業務の話をしたつもりはない。日常の居部屋での会話、食事や酒の席で、伝統派寮生が驚くほど自分の話しかしないことを振り返ったのである。

が、恵迪寮での業務の進め方が恵迪寮伝統派のパーソナリティの形成に一役買っている可能性があると気づいた。これについては別エントリで後日書く。新たな気づきのきっかけに感謝する。

さて、私が【恵迪寮自治会は「十人十色」を良しとする集団ではない。】を Facebook に投稿したとき、そこのコメント欄で、「多くの団体と同様、恵迪寮でも、上級生が新入生にキャラづけをして『魅力を発見』してやったことにより精神的主従関係を確立しているのではないか」という指摘があった。これに対し鈴木氏は、

ここでの主従関係とは、嫌でも無条件に従う関係という意味でしょうか。

これは事実じゃなくて感想ですが、寮での主従関係の原因で最も重大なのは、「暴力等による恐怖」あるいは「先輩とは従うべきもの」という固定観念で、キャラ付けではないと感じます。

申し訳ないのですが、××さんや井上君が感じた「キャラ付けによる精神的上位の形成」がどういうことなのか分かりません。私に体験がないためだと思うので、もし失礼でなければ教えてほしいです。

と述べる (人名を伏字にした)。恐れ入りながら、鈴木氏はこの問題に全く無頓着と見える。

ここでの主従関係とは、嫌でも無条件に従う関係という意味でしょうか。

もちろんそうではない。人に「煎餅」だの「鉄道」だの安易な「改め」 (ニックネーム) をつけてキャラをつけてその人を理解した気になっている側と、理解されたことにされてしまっている側と、どちらがものを言いやすいかという問題である。

文書の頭に戻るが、

期待すると、痛い目に遭う可能性

魅力の発見が可能性であって保障されていない、まして強制でもないことには、受験生や保護者ならまず気づくでしょう。

は、文脈を取り違えている。

違う意志を持つ寮生がたくさんいる

道信氏は「十人十色」と多様性を重視しています。同じ意思を全員で共有するのではなく、多様な意思の多様さを知る方が現実的で、知るためには笑い合い考えをぶつけ合うことが実際有効であった言いたいのだと思います(違ったらごめん!)。

多様な意志をあらしめんとする意志、なからしめんとする意志、つまり意志に関する意志、「メタ意志」は合理的に議論することができない。多様な意志をなからしめんとするメタ意志は、「意志」として扱えない。