恵迪寮中途退寮者の意見

北海道大学卒業者・恵迪寮中途退寮者の井上修一が書いています。恵迪寮での文化の押し付け、多発するハラスメント、民主主義を無視した運営に辟易して退寮しました。

鈴木氏の批判に答えて

恵迪寮自治会は「十人十色」を良しとする集団ではない。 - 恵迪寮中途退寮者の意見 に対し恵迪寮生の鈴木麟太郎氏から批判をいただきました。承諾をいただいたので、以下に全文を転載します。ただし人名を伏字にした箇所があります。

昔から井上君の話はいつも考えさせてくれて勉強になります^^

すみませんが今回は賛同しかねますm( )m

また勉強になったって意味なので、私の事嫌いにならないでくださいね!?

期待すると、痛い目に遭う可能性

魅力の発見が可能性であって保障されていない、まして強制でもないことには、受験生や保護者ならまず気づくでしょう。

違う意志を持つ寮生がたくさんいる

道信氏は「十人十色」と多様性を重視しています。同じ意思を全員で共有するのではなく、多様な意思の多様さを知る方が現実的で、知るためには笑い合い考えをぶつけ合うことが実際有効であった言いたいのだと思います(違ったらごめん!)。

新たな文化を作るのではなく

近年は寮生の多様性を知るための企画(部屋廻り、お出かけしようぜ等)を4月上旬に、寮の芸術や伝統文化を知るための企画(寮歌祭、士幌合宿等)を後半に配置するなど、狙いのある変化が具体化しつつあります。これは「興味のある企画でも知り合いがいないと参加しにくい」という調査結果に基づく試みで、従来の多様さに加えて順序を与えることで寮生相互と伝統文化の2つともの理解を達成する狙いがあります。上手くいくといいですね^^

150人くらいの人だけが恵迪寮で「個性」を発揮して受容されている

印刷物や企画で全寮に紹介されているのは150人程度です。一方で最近では期の終わりや始まり(6月頃と12月頃)に全部屋の活動を振り替えって自己紹介する機関紙(?)が発行されました。これを見ると「特になし」みたいな部屋は1割未満部屋であり、個人が出来事とともに紹介されていました。部屋内規模でも個性が発揮・受容されている裏付けだと思います。1割未満という数字から、先述の「期待すると痛い目に会う可能性」は十分低いんじゃないかと思います。

他人の話を聞くことよりも自分の話をすることを重視する人が、伝統派寮生には多かった。

寮内でよくある話の一つに、「井上君が仕切っていたときの新入生受け入れは素晴らしかった」という話があります。当然井上君の話を委員が聞いて、話し合って実行したことです(よね?)。 毎期そうですがこの委員会は新入寮生のサポートや大学当局との交渉など任務の性質上、寮に詳しくて活動に積極的な人でないと務まりません。

同じ相手でも話を聞いてくれる時と聞いてくれない時がある程に、話し合いは実は難しいものだと思います。特に大人数の会議は話を聞いてもらいづらい(人の話も聞きづらい)ので、やり方は見直した方がいいかもしれませんね。

伝統派寮生には多かった。

この感想には注意しなければなりません。私の感想ではなく事実として、「俺の提案に合わないなら引っ越せ」「代々個室だから自治(企画、会議、掃除、防災等全て)に参加しない。部屋の先輩にそう言われた」という、話し合いに応じてもらえず、生活に支障が出るレベルでの理にかなわない話がまかり通ってきたのは、文中で「個室に追いやられた」と表現された人・部屋でした。

キャラ付けと主従関係の話題

ここでの主従関係とは、嫌でも無条件に従う関係という意味でしょうか。

これは事実じゃなくて感想ですが、寮での主従関係の原因で最も重大なのは、「暴力等による恐怖」あるいは「先輩とは従うべきもの」という固定観念で、キャラ付けではないと感じます。

申し訳ないのですが、××さんや井上君が感じた「キャラ付けによる精神的上位の形成」がどういうことなのか分かりません。私に体験がないためだと思うので、もし失礼でなければ教えてほしいです。

ここから余談。

教養の授業の受け売りですが、暴力を受けて育った人と、自力で暴力を克服した人は、自分の過去を正当化するため、後に暴力をふるう側になりやすいそうです。

また別の受け売りですが、入寮前まで上下関係や慣習、規則に縛られて育った人ほど「先輩や慣習、規則には従わなければならない」と勘違いしてしまうのではないかとも思います。

もしも受験から急に解放されて、急に手にした(=ある意味押し付けられた?)自由に戸惑う人がいるとしたら、クラーク氏が札幌農学校生に教えた、責任ある自由を伝えられたらいいな…と思いました。

というわけで平成遠友夜学校の宣伝!

4月7日(火)18:30より遠友学舎でクラーク精神についての講義を予定しております。変更になったらごめんなさい!

平成遠友夜学校はいつでも無料、予約不要、誰でも聴きに来れます。毎週あるけど1回でも歓迎します。生徒には学生から戦前生まれまでいます。

残念なのは北大入学式前夜祭と同日で1年生が受講できないことですね…(^^;)

批判に答えようと思います。以下、読みやすさのために常体で書きます。失礼をお許しください。

私が

恵迪寮自治会は文化の保存をも任務としている団体である。この文化とは、毎年恵迪寮に集まった寮生が何かをすればそれが文化になるというようなものではない。昔からある寮歌やストームを寮生に実行させて、それを文化とするものである。恵迪寮では人が文化を作るのではなく文化に人をはめ込むのである。文化に馴染めない寮生が現れたときは、それらの寮生と折り合いをつけて新たな文化を作るのではなく、個室に追いやって文化を護持する。

と書いたのに対し、鈴木氏は

近年は寮生の多様性を知るための企画(部屋廻り、お出かけしようぜ等)を4月上旬に、寮の芸術や伝統文化を知るための企画(寮歌祭、士幌合宿等)を後半に配置するなど、狙いのある変化が具体化しつつあります。これは「興味のある企画でも知り合いがいないと参加しにくい」という調査結果に基づく試みで、従来の多様さに加えて順序を与えることで寮生相互と伝統文化の2つともの理解を達成する狙いがあります。上手くいくといいですね^^

と言う。私が言いたいのは、恵迪寮で個室住人が文化を作る主体となっていないことである。部屋まわりには辛うじて個室の半数くらいが参加していたと思うが、あとはなおざりである。「お出かけしようぜ」(新入寮生と上級生が小グループで外出し食事等をする) に参加する個室の上級生は5名もいないし、5月以降個室が企画を主催することはほぼない。

さらに鈴木氏は

印刷物や企画で全寮に紹介されているのは150人程度です。一方で最近では期の終わりや始まり(6月頃と12月頃)に全部屋の活動を振り替えって自己紹介する機関紙(?)が発行されました。これを見ると「特になし」みたいな部屋は1割未満部屋であり、個人が出来事とともに紹介されていました。部屋内規模でも個性が発揮・受容されている裏付けだと思います。1割未満という数字から、先述の「期待すると痛い目に会う可能性」は十分低いんじゃないかと思います。

と続ける。部屋内で個性の発揮・受容が行われていれば良いのか。私はそうは思わない。現状、「食い極などばかばかしい」「理不尽に威張り散らす上級生を軽蔑する」「寮歌など聞くのも嫌だ」という異端の考えを相部屋で安全に主張し続け理解を得ることはできない。「嫌なら個室に行け」で終わりにする上級生があまりに多い。私はこの格差を問題にしているのである。確実に、恵迪寮には公認される価値観・嗜好とそうでないそれがある。

私が

(入寮案内の執行委員長の) 談話に

さらなる自分の魅力に気づけたり、逆に気づいてもらえる。

とある。本来これと対をなすべき「他人の魅力に気づいたり、逆に気づかせてやれる」が書かれていないのは、恵迪寮伝統派の気風を正確に表していると思う。恵迪寮伝統派は、恵迪寮とその文化を愛好する理由に、「恵迪寮では自分に関心を持ってもらえる」ということを挙げる人が多い。私が3年間住んだ感想では、他人に関心を持つことより自分に関心を持ってもらうこと、他人を理解することより自分を理解してもらうこと、他人の話を聞くことよりも自分の話をすることを重視する人が、伝統派寮生には多かった。

と書いたのに対し、鈴木氏は

寮内でよくある話の一つに、「井上君が仕切っていたときの新入生受け入れは素晴らしかった」という話があります。当然井上君の話を委員が聞いて、話し合って実行したことです(よね?)。

毎期そうですがこの委員会は新入寮生のサポートや大学当局との交渉など任務の性質上、寮に詳しくて活動に積極的な人でないと務まりません。

同じ相手でも話を聞いてくれる時と聞いてくれない時がある程に、話し合いは実は難しいものだと思います。特に大人数の会議は話を聞いてもらいづらい(人の話も聞きづらい)ので、やり方は見直した方がいいかもしれませんね。

私の感想ではなく事実として、「俺の提案に合わないなら引っ越せ」「代々個室だから自治(企画、会議、掃除、防災等全て)に参加しない。部屋の先輩にそう言われた」という、話し合いに応じてもらえず、生活に支障が出るレベルでの理にかなわない話がまかり通ってきたのは、文中で「個室に追いやられた」と表現された人・部屋でした。

と述べる。

私は、自治の業務の話をしたつもりはない。日常の居部屋での会話、食事や酒の席で、伝統派寮生が驚くほど自分の話しかしないことを振り返ったのである。

が、恵迪寮での業務の進め方が恵迪寮伝統派のパーソナリティの形成に一役買っている可能性があると気づいた。これについては別エントリで後日書く。新たな気づきのきっかけに感謝する。

さて、私が【恵迪寮自治会は「十人十色」を良しとする集団ではない。】を Facebook に投稿したとき、そこのコメント欄で、「多くの団体と同様、恵迪寮でも、上級生が新入生にキャラづけをして『魅力を発見』してやったことにより精神的主従関係を確立しているのではないか」という指摘があった。これに対し鈴木氏は、

ここでの主従関係とは、嫌でも無条件に従う関係という意味でしょうか。

これは事実じゃなくて感想ですが、寮での主従関係の原因で最も重大なのは、「暴力等による恐怖」あるいは「先輩とは従うべきもの」という固定観念で、キャラ付けではないと感じます。

申し訳ないのですが、××さんや井上君が感じた「キャラ付けによる精神的上位の形成」がどういうことなのか分かりません。私に体験がないためだと思うので、もし失礼でなければ教えてほしいです。

と述べる (人名を伏字にした)。恐れ入りながら、鈴木氏はこの問題に全く無頓着と見える。

ここでの主従関係とは、嫌でも無条件に従う関係という意味でしょうか。

もちろんそうではない。人に「煎餅」だの「鉄道」だの安易な「改め」 (ニックネーム) をつけてキャラをつけてその人を理解した気になっている側と、理解されたことにされてしまっている側と、どちらがものを言いやすいかという問題である。

文書の頭に戻るが、

期待すると、痛い目に遭う可能性

魅力の発見が可能性であって保障されていない、まして強制でもないことには、受験生や保護者ならまず気づくでしょう。

は、文脈を取り違えている。

違う意志を持つ寮生がたくさんいる

道信氏は「十人十色」と多様性を重視しています。同じ意思を全員で共有するのではなく、多様な意思の多様さを知る方が現実的で、知るためには笑い合い考えをぶつけ合うことが実際有効であった言いたいのだと思います(違ったらごめん!)。

多様な意志をあらしめんとする意志、なからしめんとする意志、つまり意志に関する意志、「メタ意志」は合理的に議論することができない。多様な意志をなからしめんとするメタ意志は、「意志」として扱えない。