恵迪寮中途退寮者の意見

北海道大学卒業者・恵迪寮中途退寮者の井上修一が書いています。恵迪寮での文化の押し付け、多発するハラスメント、民主主義を無視した運営に辟易して退寮しました。

本を読まず Wikipedia を読んで済ませる大学生が攻める姿勢で迫ってくる恵迪寮生活

4 ・ 5 月に「寮生の1人」氏から多くのコメントがあった。そのコメントを振り返ろう。コメントは全て http://ex-keiteki.hatenadiary.jp/entry/2016/06/25/151123 で見ることができる。

「寮生の1人」氏は、私がこのブログを書くのは言論の自由に対する印象操作だ、と主張している。

相手がネット上で意見を発信してこないのを良いことに、自分の名前を表明してさえいれば一方的に何でも言える、言論の自由だ!と印象操作していくことはあなたが嫌う所謂「伝統派寮生」像に近く、些か傲慢な考え方なのではないでしょうか?

言いたいことは、言論の自由の私の理解が間違っている、ということだろう。では、同氏は言論の自由をどのようなものと定義しているのだろうか。氏の主張を見てみよう。

ちなみに、言及対象の同意を得ず検証もそこそこに無責任な言論を発信し、対象が著しく不利益を被る場合は名誉毀損罪やら侮辱罪として規制・制限されている事例は勿論ご存知だとは思うのですが…裁判の煩雑さなどから全てが全て問題として取り上げらている訳ではありませんが、不文律的だとしても十分社会のルール・規範として問題視されているという発想には繋がらないのでしょうか?

更に言えばハイドパークのスピーカーズコーナーであるまいし、井上さんの政府や公人でない対象への「無制限の言論の自由」つまりは「ヤジの自由」に関しては特に認められていませんよ?

この第 1 段落は、雑な主張である。言論の自由を保障することと名誉毀損・侮辱を処罰することは、完全には両立しない。そこをどのような規準で規制するかしないかは、当然考えなければいけないことである。現実にも、大学教養の憲法学の主要な論点として扱われている。「対象が著しく不利益を被る場合」の一言で表せるものではない。同氏の主張を読んでも、ここを考えた形跡がない。「不文律的だとしても十分社会のルール・規範として問題視されている」と主張しているが、そのような不文律が存在して尊重されているか調べたわけでもないようだ。

第 2 段落は、 Wikipedia の「言論の自由」の記事に酷似している。 Wikipedia の記事はこうだ:

しかし、個人に対する言論の自由は、濫用すると、名誉毀損罪・侮辱罪に抵触する恐れがあり、充分に注意して行使しなければならない(ロンドンのハイド・パークにある「スピーカーズ・コーナー」は、この制約さえもなく、主張・発言の自由が完全に保障された珍しい場所であるが、同時に「ヤジの自由」も保障されている)。 ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AB%96%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1 )

おそらく、同氏は Wikipedia を読んで自説を形成したのだろう。

以下、この仮定に基づいて論を進める。もし同氏が Wikipedia ではなく本を読んで自説を形成したことが判明した場合は、考えを改めようと思う。

なぜ、言論の自由について論じようというときに、 Wikipedia の「言論の自由」の項を読んで済ませてしまうのだろうか。なぜ、本を読まないのだろうか。無論、 Wikipedia を使うなとは言わない。話の本筋から遠い項目の調べものをするには便利だ。また、「中央本線の総延長」とか「日本の人口」とか「埼玉県の GDP 」といった、客観的に確認できる事項については、 Wikipedia の記事が正確である可能性が大きい。だが、ある思想について、 Wikipedia を読んでその思想が正確に理解できることはないだろう。

こういう学問的・知的怠慢は、私が住んでいたころの恵迪寮生にはよくあることだった。これが私が恵迪寮を退寮した理由の一つでもある。恵迪寮伝統派や恵迪寮愛好者は、寮生どうしの距離が近いのが恵迪寮の良いところだと誇る。しかし、 Wikipedia 知識で自説を構築する大学生と近い距離で話して、何になると言うのか。

恵迪寮の「食い極」やその他体力的・精神的負荷の大きい行事・文化で攻める姿勢が身に着いたと誇る恵迪寮伝統派は多い。しかし、 Wikipedia 知識で自説を構築する大学生が攻める姿勢を身に着けて、何になると言うのか。無論これは個人の好みではあるが、私は、攻める姿勢ばかりある人よりは、本を読んでいる人と親交を持ちたいと思った。

「寮生の1人」氏はこうも言った:

現状での井上さんの意見発信の姿勢が寮生など多数の人に徒らに不利益を与え得る望ましくないものだと述べ、それに伴い自省や改善を求めているのです。

再三の意見・要請にも関わらず寮の現状を検証しない理由、また検証しなくていいと判断する理由は何ですか?

Wikipedia から出てきた意見を「再三」主張しても、それはあくまで Wikipedia から出てきた意見でしかない。「自省」の材料としても不足である。こういう不勉強な大学生が、こういう図々しさで迫ってくるのが恵迪寮での生活であった。恵迪寮での生活がどんなものか、寮外の読者にも多少はイメージできるだろうか。

2017 年 2 月 9 日追記

「以下、この仮定に基づいて論を進める。もし同氏が Wikipedia ではなく本を読んで自説を形成したことが判明した場合は、考えを改めようと思う。」を挿入しました。