恵迪寮の代替可能性
3 月は北大を卒業する人の多い時期だった。卒業とともに恵迪寮を出てゆく人がよく主張するのは、以下のような論理である:
- 私は恵迪寮の文化に参加することにより、人間を知ることができた。
- 恵迪寮の文化がなければかかる成長はあり得なかった。
- よって、恵迪寮の文化はこのまま保存すべきである。
つまり、恵迪寮の文化は代替不可能であるという主張だ。
ここで、寮自治とは何かを考えてみよう。寮自治とは、寮生どうしが交渉して寮にどう住むかを決定し、寮生の感じる住みやすさの総和を最大化する機構だ。これは単に私がそう考えているに留まらず、恵迪寮自治会も自治会規約・議案でこう規定している。
つまり、寮自治とは交渉の積み重ねなのだ。交渉は、互いに譲歩の余地を持ち寄ることで初めて成立する。譲歩の余地が大きければ大きいほど、交渉は大きな成果を生み出し得る。
冒頭に挙げた、恵迪寮の文化は代替不可能であるという主張は、彼・彼女が恵迪寮の文化については交渉において譲歩しないという宣言である。これは、自治の可能性を狭める主張である。
無論、熟考の末に恵迪寮の文化は代替不可能であるという結論に至ることはあるだろう。それを主張するのも自由だ。譲歩できない価値は誰にでもあるだろう。私にもある。しかし、寮自治のなかで、恵迪寮の文化は 代替不可能 である、と主張するならば、恵迪寮の文化は 代替可能 であるという反対意見を聞くことも受け入れなければならない。なぜならば、恵迪寮の自治は、恵迪寮の建物・設備という有限の資源を公平に分配するという使命を担っているし、寮自治においては各自の擁護する価値は全て平等に尊重されるべきだからだ。
私が住んでいた 2011 年から 2014 年の恵迪寮では、恵迪寮の文化は代替不可能だと主張し、しかもこれに反論や疑問が出ると自分のプライドに配慮していないといって怒り出す者がいた。あまつさえ意見の対立する者に罵倒・人格攻撃を繰り出すこともあった。こういうのは自治を行う上での害である。