恵迪寮伝統派が表現の自由を語るとボロが出る。
民主主義と多数派独裁は似ているが異なるものである。しかし、私の恵迪寮に住んでいた 2011 - 2014 年、恵迪寮伝統派はこの二つを混同していた。民主主義のつもりで多数派独裁を実行していた。いまはどうなのかは知らない。しかし、仮にいまでも恵迪寮生が民主主義ではない支配の下に置かれているならば大問題である。しかも恵迪寮自治会も北大当局も寮の現状の情報をわずかしか開示していない。なので、いまも恵迪寮では多数派独裁が実現していると考えて話を進めるべきである。
日本国民は憲法を定めて表現の自由を保障している。日本以外でも近代自由主義国家は全てそうである。表現の自由の目的は多数あるが、民主主義を多数派独裁に陥らせないこともその一つである。この目的のため、表現の自由を運用するときは、多数派にとって不快な表現も許すこと、自分にとって不快な表現も許すことが求められる。これが、恵迪寮伝統派には難しいことである。彼/彼女らは日ごろ多数派は全て正しいと思って恵迪寮を運営しているし、自分にとっての快を実現し自分にとっての不快を排除することを重んじて生きているからである。なので彼/彼女らが表現の自由が語るとボロがたくさん出てくる。「寮生の1人」氏も
相手がネット上で意見を発信してこないのを良いことに、自分の名前を表明してさえいれば一方的に何でも言える、言論の自由だ!と印象操作していくことはあなたが嫌う所謂「伝統派寮生」像に近く、些か傲慢な考え方なのではないでしょうか?
を皮切りに表現の自由についての持論を述べていたが、ボロだらけであった。