恵迪寮中途退寮者の意見

北海道大学卒業者・恵迪寮中途退寮者の井上修一が書いています。恵迪寮での文化の押し付け、多発するハラスメント、民主主義を無視した運営に辟易して退寮しました。

テンプレ通りの不勉強な人が来た。

ex-keiteki.hatenadiary.jp

に、「ちらっと見てびっくりしました」氏がコメントした。コメントはこうだ:

恵迪寮に住む多種多様な北大生を強い偏見のもと一括りにして 、しかも民主主義が根付いていないことについて深く触れることもないままに書きあげられたこの投稿を見て、とてもつまらない気持ちになりました。こういった投稿は何の参考にもならないどころか、読者に強い偏見を植え付けるという悪質なものにしかならないと感じました。 ちらっと見た感想です。 参考にして頂けたらとても嬉しいです。

これは、テンプレ通りの不勉強な人の発言である。不勉強な人に共通するパターンの主張が 3 つある。以下、それを述べる。

テンプレ通りの点 1 : 「偏見」という語を定義せずに使うところ

世界を作るのは我々である。我々は人類全員の幸福の総量を最大にするような世界を建設しなければならない。現在存在する世界がこの要件を満たす世界である保証はない。むしろ、そうでないおそれの方がずっと大きい。だから、我々は、あらゆる可能性を検討すべきである。あらゆる意見についてそれが正しいかどうかを検討すべきである。そのようにして最適解を発見し、我々が最も生きやすい世界を作るべきである。

だが、偏見はこの限りではない。偏見とは、間違っていることを既に確認した意見である。だから偏見は検討の対象にしなくて良い。

本来あらゆる意見を平等に扱うべきところ、偏見には特別に低い地位を与えるのだ。だから、何が偏見であるかの定義には細心の注意を払わなければならない。特に、ある意見が自分と異なる意見だったり、自分の触れてほしい論点に触れていない意見だったり、少数意見だったりするからと言ってそれを「偏見」と呼ぶことは避けるべきである。それは我々が最適な世界のあり方を発見するのを妨げる。

ところが「ちらっと見てびっくりしました」氏は偏見の定義を示していない。おそらく、自身と異なる意見という意味で「偏見」という語を使っている。こういう用語法は不勉強な人がよく行うものである。

テンプレ通りの点 2 : 「一括りにしているからこのブログは駄目」

「ちらっと見てびっくりしました」氏は

恵迪寮に住む多種多様な北大生を強い偏見のもと一括りにし……たこの投稿……は何の参考にもならないどころか、読者に強い偏見を植え付けるという悪質なものにしかならない

と述べた。これも、テンプレ通りの主張だ。

このブログは、多種多様な寮生を一人一人拾って描写することは目的にしていない。する気もない。そういうテクストが世のなかに必要だと思うならば、そう思う人が自分で書けば良いのだ。

このブログでは寮の大勢に影響する要素だけ書く。公立中学校・自称進学校出身でない寮生、それらの常識から自由な寮生、不勉強でない寮生、北大のブランドでどこかに就職しない寮生もいると思うが、そういう寮生が大勢に影響する例を見たことがない。もし読者がそれを知っているならば、世界と北大の認識の進歩のためにぜひ書いてほしい。

「自分の触れてほしい論点に触れていないからこのブログは駄目」という主張は、「寮生の1人」氏もよくしたものだ。

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不勉強な人の主張には、パターンがある。

テンプレ通りの点 3 : 「自分にとって不要、よって世界にとって不要」

「ちらっと見てびっくりしました」氏は

この投稿を見て、とてもつまらない気持ちになりました。こういった投稿は何の参考にもならないどころか、読者に強い偏見を植え付けるという悪質なものにしかならない

と述べた。同氏において「何の参考にもならない」「強い偏見を植え付けるという悪質なものにしかならない」エントリであることは、わかる。同氏が自由に主張して良い事項だ。だが、そこから、他の読者においても「何の参考にもならない」「強い偏見を植え付けるという悪質なものにしかならない」となるのは飛躍である。テクストの解釈・影響は人により違う。テクストが 1 本でも読者が 10 人いれば 10 通りの解釈・影響がある。

不勉強な人は、こうした、人間の多様性を認識できていないことが多い。

自分と他人が同じだと思うのは、人間の自然な状態である。誰でも生まれたときはそうだ。そうでないことを認識し始めるのを日本語では「物心がつく」と称している。物心がついたからといってそれで終わりではない。それからも継続して学習してゆかないと自然な状態に戻ってしまいやすい。学問は、「いま・ここ・自分」以外の存在を想像する力を養うのに絶好の訓練だが、不勉強な人は学問をしていないからその想像力が足りない。加えて、公立中学校・自称進学校では他者と同じであることを良いとする教育を行うので、この想像力が育ちにくい。

Facebook の「恵迪寮」グループの管理者も、「自分にとって不要なテクストだからグループ参加者全員にとって不要なテクストだ」という判断様式により、私の投稿を削除した。

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「自分にとって不要、よって世界にとって不要」の論理も、やはり、一種のパターンだ。

2018 年 8 月 6 日追記

「我々は全類全員の幸福の総量を最大にするような世界を建設しなければならない。」を 「我々は人類全員の幸福の総量を最大にするような世界を建設しなければならない。」に修正しました。

恵迪寮生「行事参加の強要はいまもある。ヒルトン合宿は今年もやる」

先日、 Twitter で、現寮生と会話した。興味深いので供覧する。

t20 氏は「強制なんてほぼない」と言った。ほぼない、ということは、ある、ということである。ヒルトン合宿は今年もあるとも言っている。

なお、 t20 氏はヒルトン合宿には反対で、 1 年目には本当のことを言う方針だと言っている。ヒルトン合宿に参加したくない 1 年目、ヒルトン合宿を止めたい 2 年目以上は t20 氏と連絡をとって協力すると良いだろう。

2018 年 4 月 2 日注記

マークアップの誤りを修正しました。

恵迪寮生「選挙の候補者を応援しない人ってなんなんだろう」

2013 年 5 月の自治会執行委員長の選挙には、 A 氏が立候補した。 A 氏が言論弾圧をする嘘つきであることは、

に書いた。さらに、 A 氏は立会演説会で、「警笛寮」氏 ( https://twitter.com/ANTI_Keiteki ) という、ある寮生の意見に興味がないと発言した。

言論弾圧をする嘘つきで、寮生の意見に興味がないと公言する者が執行委員長になれば、私の生活にも寮生の権利にも自治会の運営にも不利益であると私は考えた。このため、 A 氏を落選させるべきであると考えた。私はまず、立会演説会で、「A 氏が執行委員長になることは容認できないから、私は不信任に 1 票投じる」と言った。すると、有権者の 1 人が「立会演説会はそういう話をする場ではないから、有権者はそういう発言をすべきではないし、選挙管理委員会はこういう発言を認めるべきではない」と言った。これを受けて選挙管理委員長が「その通り、立会演説会はそういう話をする場ではないから、そういう発言は今後認めない」と言った。

これで私は、立会演説会で自治会員に自分の意見を訴えることを諦めた。さらに、これの前に、自分の意見を寮内で貼り紙で訴えたが、 A 氏の一派に取り囲まれて剥がされた。この事件も前掲のエントリに書いた。これではもはや、自分の意見を自治会員に届けるにはネットに頼るほかないと考え、 Twitter

と書いた。

これに反応したのが、当時寮生だった「きたやま」氏 ( 現在は「きたやまん」氏 ) である。同氏はまず

( 魚拓: http://megalodon.jp/2017-0418-1624-54/https://twitter.com:443/5ktm2/status/338472768200912897 )

と言い、次に、私の

に対し

( 魚拓: http://megalodon.jp/2017-0418-1623-28/https://twitter.com:443/5ktm2/status/338550681998864384 )

とリプライした。

同氏の問いに短切に答えよう。選挙の候補者を応援しない人は、ただの民主主義者である。不信任を1票入れたという報告は、要る。

民主主義の基礎は権力不信である。選挙もまた権力不信を実践する場である。権力の伴う役職に立候補した者が、本当にその役職にふさわしいか、疑って疑って疑い抜いて、それでもふさわしいと判断できた者を役職に就かせるのが選挙である。このため、有権者は盛んに発言・討論すべきである。ふさわしくないと思うならばそれを率直に言うのが有権者の責任である。自分の知っていることで、他の有権者が知らない事項があれば、それは知らせるべきである。

「きたやま」氏は、頑張っている者は疑わず批判せず応援すべきだという考えである。なるほど、頑張れる、というのは好ましい資質の一つである。しかし、同氏のように、「頑張っている」というだけで応援するのは慎重な態度ではない。もっと疑うべきだ。まして、応援することを他の有権者に求めるのはもってのほかである。

恵迪寮自治会は民主主義を標榜する団体であるが、実際にはこういう発言が出て、さらに、咎めるのも私のほかおらず、選挙管理委員会も対処しなかったのが、 2013 年の状況であった。いまはどうなっているのか知らない。気になる人は恵迪寮自治会に問い合わせてください。

2018 年 4 月 1 日注記

「2014 年 5 月の自治会執行委員長の選挙」を「2013 年 5 月の自治会執行委員長の選挙」に訂正しました。

西宮市長「殺すぞ」恵迪寮自治会執行委員長「殺すぞ」

兵庫県西宮市の今村岳司市長が新聞の記者に「殺すぞ」と言った後、謝罪したという報道があった。

http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/05/mayor-of-nishinomiya_a_23325530/

私はこの報に接して、恵迪寮自治会の執行委員長がよく「殺すぞ」と言っていて、

( 弱そう )

と思ったことを思い出した。

私が住んでいたころの恵迪寮伝統派は、次のような説を唱えていた:

  • 恵迪寮は人間を学ぶ場である。
  • 下級生は人間を学ぶために上級生に興味を持ち、知るように努め、よく話し長い時間ともに過ごすようにしなければならない。
  • 上級生の人格はその上級生が誇りを持って作り上げてきたものなので、下級生は肯定し尊重すべきである。些細なことで否定すべきでない。
  • これらをしない者は器が小さく視野が狭いので、上級生が教育すべきである。
  • 教育のためには罵倒し体罰を加えても良い。
  • 人間を学ぼうとしない者は恵迪寮にいなくて良い者なので、追い出して良い。

私は上級生にあまり興味が持てず深く関わろうともしなかったので、上級生からよく罵倒され、体罰も食った。出て行けと言われたことも多い。しかし、大学生の年齢になっても口癖のように「殺すぞ」と言う人など、興味を持たず関わらなくて良いし、「弱そう」で済ませて良いではないか。

「寮生の1人」bot の有効利用法

昔は恵迪寮の住みづらさを説明するのは大変だった。いまは楽だ。「寮生の1人」bot https://twitter.com/ryoseinohitori を見せて「こういう人と話さなければいけないから」の一言で足りる。 https://github.com/idaisukee/ktk/blob/master/comments.md にあるコメント一覧も使える。

恵迪寮伝統派が表現の自由を語るとボロが出る。

民主主義と多数派独裁は似ているが異なるものである。しかし、私の恵迪寮に住んでいた 2011 - 2014 年、恵迪寮伝統派はこの二つを混同していた。民主主義のつもりで多数派独裁を実行していた。いまはどうなのかは知らない。しかし、仮にいまでも恵迪寮生が民主主義ではない支配の下に置かれているならば大問題である。しかも恵迪寮自治会も北大当局も寮の現状の情報をわずかしか開示していない。なので、いまも恵迪寮では多数派独裁が実現していると考えて話を進めるべきである。

日本国民は憲法を定めて表現の自由を保障している。日本以外でも近代自由主義国家は全てそうである。表現の自由の目的は多数あるが、民主主義を多数派独裁に陥らせないこともその一つである。この目的のため、表現の自由を運用するときは、多数派にとって不快な表現も許すこと、自分にとって不快な表現も許すことが求められる。これが、恵迪寮伝統派には難しいことである。彼/彼女らは日ごろ多数派は全て正しいと思って恵迪寮を運営しているし、自分にとっての快を実現し自分にとっての不快を排除することを重んじて生きているからである。なので彼/彼女らが表現の自由が語るとボロがたくさん出てくる。「寮生の1人」氏も

相手がネット上で意見を発信してこないのを良いことに、自分の名前を表明してさえいれば一方的に何でも言える、言論の自由だ!と印象操作していくことはあなたが嫌う所謂「伝統派寮生」像に近く、些か傲慢な考え方なのではないでしょうか?

を皮切りに表現の自由についての持論を述べていたが、ボロだらけであった。

世間の常識に忠実な恵迪寮生から生き方を学んだ。

日本の世間がなんとなくやってはいけないと考えていることの多くは、憲法上はどんどんやるように大いに奨励されている。よって日本では憲法をよく読んで実践するだけで新しい・画期的な人間になれる。まことに easy mode である。「人と違うことをしたい」とか「耳目を集めたい」と願いながら「だが何をすれば良いのかわからない」と悩む人は多いが、その答は憲法学の本に書いてあるので簡単である。

なお前段落の内容を明瞭に把握したのは北大に来てからである。恵迪寮の寮生、特にそこで相部屋に住んで自治活動に参加する寮生の多くは、憲法など通用していない田舎の無学な階層の出身であり、大学に入っても勉強をしていないので世間の常識を強く刷り込まれている。彼/彼女らの世界の最高法規は憲法ではなく郷のルールである。彼/彼女らが「郷に入りては郷に従え」と盛んに言うのもその現れである。私は彼/彼女らを見て、彼/彼女らの規範に沿って生きることほどくだらないことないと確信した。