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恵迪寮中途退寮者の意見

北海道大学学生・恵迪寮中途退寮者の井上大輔が書いています。恵迪寮での文化の押し付け、多発するハラスメント、民主主義を無視した運営に辟易して退寮しました。

ゴルスタ運営・ゴルスタ民「運営は努力しているから批判してはならない」恵迪寮生「自治会執行部は努力しているから批判してはならない」

ゴルスタの運営が独裁的だと話題になっている。

togetter.com

運営は、利用者を支配するためにアカウントの停止、警察への通報という手段を採っている。その論理としては、「運営は努力しているから批判するのは不道徳である」というものを採用している。これに屈服した利用者も多い。ゴルスタの利用を続けるためという功利的な動機で屈服した利用者もいるだろうが、他方、この「努力している者を批判するのは不道徳である」という論理に賛成して屈服した利用者もいるだろう。

そして、この論理は、恵迪寮でもしばしば用いられるものである。自治会執行部は努力しているから批判してはならない、応援しなくてはならないという主張が、寮内でしばしばなされる。私が初めて聞いたときは、本当に民主主義国の大学生の発言なのかと耳を疑ったが、実際に、主張する者がいるのだ。「寮生の1人」氏も、

辟易して退寮するのも、その後寮を憂いてくれるのも自由ですが、「内部の人間」により少しずつでも矯正・緩和している状況においての井上さんの独善的な行動はいささか不粋かな…というのが寮生の一感想です。

と発言している。

ex-keiteki.hatenadiary.jp

恵迪寮生の大部分は、

  • 公立中学校
  • 学区 2 番手の高校、いわゆる「自称進学校」

の出身である。どうやら、寮生の話を聞くに、これらの学校では、努力している者を批判してはならないといった教育をしているようである。無論、公立中学校・自称進学高校にもリベラルな学校はあるだろうし、また、学校の教育から独立してものを考えられる人はいるだろうが。

恵迪寮伝統派の多くは、彼らの母校で教わった通りの感覚で大学の寮の自治も行おうとする。このため、恵迪寮自治会が規約では民主主義を標榜していても、実際には骨抜きとなる。恵迪寮では言論弾圧が起こりハラスメントもなくならず、寮生全員のためになる運営が行われない。この原因として彼らのこういう心性が大きい。私はそう見ている。

恵迪寮生「権利義務が法令で定まる世界は住みづらい」

注 タイトルは、「寮生の1人」氏の発言を私が要約したものである。同氏の発言は全て http://ex-keiteki.hatenadiary.jp/entry/2016/06/25/151123 で見ることができる。

以下、タイトルにまつわる発言のハイライトを示す。

( 井上 )

あなたが

団体を名指しで批判する際には同意を得る

意見を発信する際には最大限の検証をする

のが相応の責任と考えていることはわかりました。ですが、これらは社会のルールなのですか? 法令で定められていたり、判例があったりするのですか? 本でも雑誌でもネットでも街や学内で配られるビラでも、言及対象の同意を得ず、検証もそこそこに、北大当局を、札幌市を、政府を、与野党を、私企業を批判していますが、これらは全て社会のルールに違反しているのですか?


( 「寮生の1人」氏 )

他の人がやってるから僕もやる!僕は悪くない!

…だなんて子供じみた主張がまさか出てくるとは思わず、いささか当惑しています。


( 井上 )

私は、

社会のルールであれば、批判検討の結果にかかわらず自分も従う義務がある

社会のルールではなくあなたの信条であるにとどまるならば、批判検討の後納得したならば取り入れれば良いし、納得できないならば取り入れなくて良い。

と考えているのですが、これは子供じみた考えなのでしょうか。


( 「寮生の1人」氏 )

井上さんの言う「社会のルール」というのが明文化された憲法・法令のみを指しているのか、それとも社会を構成する大多数によって共有されている倫理・道徳観までを含めているのか、また、明文によって規制されていたり、一般的に忌避されていたりする行動でも多くの構成員が行っていれば問題ないと考えているのかはわからないので明言はしかねますが、寮生一般に不利益を被らせる可能性の高い現状での井上さんの意見発信姿勢は少なからず自省・自粛すべきものかと思います。特に、過去の体験を元に意地でも検証せずに現在の寮についても同じであると断定しているあたり、井上さんの言う「伝統派」以上に過去や御自身の信条に縛られ徒らに他人に不幸をもたらす状態にあるかと危惧している次第です。


( 「寮生の1人」氏 )

1.井上さんの言う「社会のルール」とは具体的に何を、どこまでを指したものですか?

2.社会のルール云々は兎も角として、私のような意見を受けて井上さんは御自身の現状での意見発信の姿勢をどうお考えですか?

3.再三の意見・要請にも関わらず寮の現状を検証しない理由、また検証しなくていいと判断する理由は何ですか?(他者がやっていたとしてもそれは「社会のルール」とやらで定まっていることではありませんし、井上さん個人の意志に基づいてやっていることでしょうからその理由をお聞きしています。)

以上3点についてまずはお答え下さいますよう心よりお願い申し上げます。

私は現状での井上さんの意見発信の姿勢が寮生など多数の人に徒らに不利益を与え得る望ましくないものだと述べ、それに伴い自省や改善を求めているのです。

言論の自由だなんだは井上さんを説得する際の一視点に過ぎません。わかりにくいかもしれず申し訳ありませんが、私の主張の言葉尻やら枝葉の部分にばかり一々気を取られずにどうか根っこの部分について目を向けて頂ければ幸いです。


( 井上 )

1.井上さんの言う「社会のルール」とは具体的に何を、どこまでを指したものですか?

「法令」と解釈してください。私の行為は法令で禁止されていますか?


( 「寮生の1人」氏 )

一般的なマナーやモラルといったものには一切触れずあくまで法令だけを論拠とする井上さんのような人ばかりになったら何とも住みにくい世界にはなりそうですね。

恵迪寮生「社会のルールよりも俺のルールに従え! 従わない奴は子どもじみている!」

注 タイトルは、「寮生の1人」氏の発言を私が要約したものである。同氏の発言は全て http://ex-keiteki.hatenadiary.jp/entry/2016/06/25/151123 で見ることができる。

以下、タイトルにまつわる発言のハイライトを示す。

( 「寮生の1人」氏 ) ネットは平等で自由に発言が出来るからこそ、特定の人、団体を名指しして批判するときは無責任に自分の考え・視点だけを発信するのではなくしっかり裏取りや反論の機会も設けるのが筋、というのが私の持論です。 ですから、私は相手の実名を出すなら出すで構わないと思っていますが、出す前にその相手に「こういった旨の意見を発信する、事実誤認や問題はないか」といった確認をすべきだと思い先日のコメントを残した次第です。井上さんがAさんに出来なくはないはずですから。


( 「寮生の1人」氏 ) さて、私が今まで不器用なりに長々と書いてきた意見が殆ど顧みられずにいることに少なからず徒労感を覚えています。井上さんもかつては寮でこれに近い仕打ちを受けたのでしょう、同情致します。 井上さんは憶測だけで何故そこまで堂々と意見を世界に発信出来るのですか?まだ北大生だとしたら何故同じ構内にある寮に現状の確認や検証を行わないのですか?意見を発信するのは自由ですが、相応の責任は果たしてくれないのですか?一個人にマスコミの職業倫理を押し付けるのもどうかとは思いますが、私の意見への理解・検討はして頂けないのですか?


( 井上 ) あなたが

団体を名指しで批判する際には同意を得る 意見を発信する際には最大限の検証をする のが相応の責任と考えていることはわかりました。ですが、これらは社会のルールなのですか? 法令で定められていたり、判例があったりするのですか? 本でも雑誌でもネットでも街や学内で配られるビラでも、言及対象の同意を得ず、検証もそこそこに、北大当局を、札幌市を、政府を、与野党を、私企業を批判していますが、これらは全て社会のルールに違反しているのですか?


( 「寮生の1人」氏 ) 他の人がやってるから僕もやる!僕は悪くない! …だなんて子供じみた主張がまさか出てくるとは思わず、いささか当惑しています。

本を読まず Wikipedia を読んで済ませる大学生が攻める姿勢で迫ってくる恵迪寮生活

4 ・ 5 月に「寮生の1人」氏から多くのコメントがあった。そのコメントを振り返ろう。コメントは全て http://ex-keiteki.hatenadiary.jp/entry/2016/06/25/151123 で見ることができる。

「寮生の1人」氏は、私がこのブログを書くのは言論の自由に対する印象操作だ、と主張している。

相手がネット上で意見を発信してこないのを良いことに、自分の名前を表明してさえいれば一方的に何でも言える、言論の自由だ!と印象操作していくことはあなたが嫌う所謂「伝統派寮生」像に近く、些か傲慢な考え方なのではないでしょうか?

言いたいことは、言論の自由の私の理解が間違っている、ということだろう。では、同氏は言論の自由をどのようなものと定義しているのだろうか。氏の主張を見てみよう。

ちなみに、言及対象の同意を得ず検証もそこそこに無責任な言論を発信し、対象が著しく不利益を被る場合は名誉毀損罪やら侮辱罪として規制・制限されている事例は勿論ご存知だとは思うのですが…裁判の煩雑さなどから全てが全て問題として取り上げらている訳ではありませんが、不文律的だとしても十分社会のルール・規範として問題視されているという発想には繋がらないのでしょうか?

更に言えばハイドパークのスピーカーズコーナーであるまいし、井上さんの政府や公人でない対象への「無制限の言論の自由」つまりは「ヤジの自由」に関しては特に認められていませんよ?

この第 1 段落は、雑な主張である。言論の自由を保障することと名誉毀損・侮辱を処罰することは、完全には両立しない。そこをどのような規準で規制するかしないかは、当然考えなければいけないことである。現実にも、大学教養の憲法学の主要な論点として扱われている。「対象が著しく不利益を被る場合」の一言で表せるものではない。同氏の主張を読んでも、ここを考えた形跡がない。「不文律的だとしても十分社会のルール・規範として問題視されている」と主張しているが、そのような不文律が存在して尊重されているか調べたわけでもないようだ。

第 2 段落は、 Wikipedia の「言論の自由」の記事に酷似している。 Wikipedia の記事はこうだ:

しかし、個人に対する言論の自由は、濫用すると、名誉毀損罪・侮辱罪に抵触する恐れがあり、充分に注意して行使しなければならない(ロンドンのハイド・パークにある「スピーカーズ・コーナー」は、この制約さえもなく、主張・発言の自由が完全に保障された珍しい場所であるが、同時に「ヤジの自由」も保障されている)。 ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AB%96%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1 )

おそらく、同氏は Wikipedia を読んで自説を形成したのだろう。

以下、この仮定に基づいて論を進める。もし同氏が Wikipedia ではなく本を読んで自説を形成したことが判明した場合は、考えを改めようと思う。

なぜ、言論の自由について論じようというときに、 Wikipedia の「言論の自由」の項を読んで済ませてしまうのだろうか。なぜ、本を読まないのだろうか。無論、 Wikipedia を使うなとは言わない。話の本筋から遠い項目の調べものをするには便利だ。また、「中央本線の総延長」とか「日本の人口」とか「埼玉県の GDP 」といった、客観的に確認できる事項については、 Wikipedia の記事が正確である可能性が大きい。だが、ある思想について、 Wikipedia を読んでその思想が正確に理解できることはないだろう。

こういう学問的・知的怠慢は、私が住んでいたころの恵迪寮生にはよくあることだった。これが私が恵迪寮を退寮した理由の一つでもある。恵迪寮伝統派や恵迪寮愛好者は、寮生どうしの距離が近いのが恵迪寮の良いところだと誇る。しかし、 Wikipedia 知識で自説を構築する大学生と近い距離で話して、何になると言うのか。

恵迪寮の「食い極」やその他体力的・精神的負荷の大きい行事・文化で攻める姿勢が身に着いたと誇る恵迪寮伝統派は多い。しかし、 Wikipedia 知識で自説を構築する大学生が攻める姿勢を身に着けて、何になると言うのか。無論これは個人の好みではあるが、私は、攻める姿勢ばかりある人よりは、本を読んでいる人と親交を持ちたいと思った。

「寮生の1人」氏はこうも言った:

現状での井上さんの意見発信の姿勢が寮生など多数の人に徒らに不利益を与え得る望ましくないものだと述べ、それに伴い自省や改善を求めているのです。

再三の意見・要請にも関わらず寮の現状を検証しない理由、また検証しなくていいと判断する理由は何ですか?

Wikipedia から出てきた意見を「再三」主張しても、それはあくまで Wikipedia から出てきた意見でしかない。「自省」の材料としても不足である。こういう不勉強な大学生が、こういう図々しさで迫ってくるのが恵迪寮での生活であった。恵迪寮での生活がどんなものか、寮外の読者にも多少はイメージできるだろうか。

2017 年 2 月 9 日追記

「以下、この仮定に基づいて論を進める。もし同氏が Wikipedia ではなく本を読んで自説を形成したことが判明した場合は、考えを改めようと思う。」を挿入しました。

恵迪寮生の思考の可視化

情報の質を評価する規準に、「外的一貫性」と「内的一貫性」がある。

外的一貫性とは、その情報と他の情報のつながりが緊密で、矛盾がないことである。

内的一貫性とは、その情報内部の命題どうしのつながりが緊密で、矛盾がないことである。

ここで、東京大学教養学部学生自治会の『大学の自治』 ( http://www.geocities.jp/todaijichikai/daigakujichi.html ) を読んでみよう。『東京大学憲章』『確認書』という過去の合意を正確に引用したうえで、自分の考えを述べている。言っている内容も、憲法学の標準的な教科書や、「 AERA 」「世界」「科学」といったリベラルな論調の雑誌とそう変わらない。

中学・高校・大学教養の勉強は、自分の思想の外的一貫性・内的一貫性を高める訓練という性質を持つ。東大の学生は中学・高校・大学教養の課程で熱心に勉強するだろうから、自ずと思想の外的一貫性・内的一貫性は高くなる。さらに、東大の学生は将来教科書や新聞・雑誌を書く側に回ることも多いので、東大生の考えることと、世間で主流となる考えは、やはり近いものになる。

外的一貫性・内的一貫性の高い情報は、「わざわざ全部聞くまでもない」という特徴がある。教科書や新聞・雑誌と似た内容なので、さらに、情報の内部の論理的なつながりが強いので、一部を聞けば全体を予測できる。『大学の自治』では原子力発電所・成田空港・沖縄米軍基地・派遣切り・戦争責任についての記述はないが、彼らがこれらの問題についてどう考えているかは、だいたい予測ができるのではないだろうか。

これに対して、恵迪寮生においては、思考の外的一貫性・内的一貫性が低い。残念ながら、恵迪寮生は、中学・高校・大学教養の勉強で手を抜く者が多い。自分の頭蓋の外で何が起きているか、何が言われているかを調べようとしない者が多い。自分の思想の端と端が矛盾していても気にしない者も多い。

具体例としては、このブログへのコメントで、「寮生の1人」氏 ( http://ex-keiteki.hatenadiary.jp/entry/2016/06/25/151123 ) は、このブログは私の意見発信の姿勢に問題があるため、「姿勢寮生の自尊感情をむやみに傷つければ名誉毀損罪に、事実の摘示が無ければ侮辱罪などに抵触する可能性があります」と主張しているが、名誉毀損罪・侮辱罪についてこのような解釈をしている人は世のなかで多くはないだろう。

また、北大を出て教科書や新聞・雑誌を書く側になる人も少ないため、北大生の思想というのは、自然、世の中の主流とは遠いものになることが多い。主流の考えがなぜ貴重かといえば、厳しい批判・検討に耐えた末に主流の位置にあるからである。それゆえ主流の考えを引き継ぐか乗り越えるか努力した思想というのはまた価値を持つ。主流の考えを理解せず調べもせずに思いつきで唱えられた説というのは、たいてい、質が低い。

恵迪寮生の思考は外的一貫性・内的一貫性が低いため、一部を聞いただけでは全体がわからない。だから、なんらかの方法で全部あるいは多くの部分を可視化してゆく必要がある。可視化しなければ北大の構成員が恵迪寮をどうすべきかを理性的に把握して考えて判断することができない。私がこのブログを書く目的の一つは、恵迪寮生の思考の可視化である。

「寮生の1人」氏のコメントを 1 ファイルにまとめた

https://raw.githubusercontent.com/idaisukee/ktk/master/comments.txt

↑ にまとめた。これで、 各エントリのコメント欄を行き来するより見やすくなっただろう。

委員会の仕事の半分は子どものお守り

恵迪寮の自治会の委員会 ( 入寮銓衡委員会、防災特別委員会、飲酒事故防止特別委員会、寮歌普及委員会等 ) に入ると、週に 3 回ほど会議があった。会議は、定時に始まることはまずなかった。 20:00 開始予定だったら、次のような進行をたどることがほとんどだった:

20:00 会議の場所に 1 人か 2 人現れる。

20:05 会議の場所に委員長が来る。

20:10 会議の場所に委員長 + 5 人が集まる。この 5 人が、残りの委員を部屋まで呼びに行く。棟が A 棟から E 棟までの 5 棟あるので、 1 人 1 棟で手分けする。

20:25 委員の 8 割程度が集まる。会議を始める。

20:40 最後の 1 人が現れる。

上級生を部屋まで呼びに行っても、会議に出たくないと言われることが多かった。言い分は、

「寒いからこたつから出たくない」とか

「きりの良いところまでゲームを進めたい」とか

「遊びに行きたい」とか

「自分がいなくても議事に支障はないだろうから自分抜きでやってもらいたい」

といったものだった。

こういうのを、人間味のある現象として評価する人もいた。あるいは、こういう上級生をなだめるのを楽しいコミュニケーションととらえる人もいた。私も私で、必死に意味を見出そうとして、

( 寮での私生活と自治会の業務を融和させるとこういう形態になるんだろうか ) とか

( だれかが自分を部屋に呼びに来るまで動かないというのは、変化しやすい状況のなかで柔軟に時間を使うためのシステムなんだろうか )

と考えたりもした。

だが結局は、私はこれを受け入れられなかった。会議をやるというのは、前に理性によってやるかやらないか検討して、やると決めたことではないか。それを、そのときの感情でやりたくない等と言うのは、だらしないと私は感じた。私は上級生のこういう姿を見て、彼らを尊敬しなくなった。こういう上級生をなだめて会議に呼ぶのは子どものお守りのようなばかばかしい仕事だと思った。また、集中すれば 1 時間で会議を終えられるのに上のようなやり方で 1.5 時間をかけるのは、時間がもったいないと思った。

私はその後入寮銓衡委員長になった。このときは任期を通じて定時集合・定時開始を徹底した。だが、その後この姿勢が受け継がれたかは知らない。